東京高等裁判所 昭和52年(行ケ)110号 判決
一 請求の原因1ないし3の事実については、当事者間に争いがない。
二 そこで審決を取り消すべき事由の有無について検討する。
1 まず、磁気記録材料において、表面層の強磁性体粉末の抗磁力(Hc)を下層のそれよりも大ならしめる点が本件発明の要旨の一部を構成するものと認められるか否か(取消事由(一))について審究する。
成立に争いのない甲第二号証(本件特許公報)によれば、本件の「発明の詳細な説明」欄は、次の如き記載及び構成となつていることが認められる。すなわち、まず、「発明の詳細な説明」の冒頭において、本件発明の目的が、磁気記録材料に関し、特に加圧下で磁気記録を再生した場合の出力の低下がきわめて僅少であるという特性を有する磁気記録材料を得ることにあることを明示(第一欄二九行ないし三二行目)したうえ、最近、高密度の磁気記録材料の開発要求が高まりつつあり、そのための磁気記録材料として、粒状粒子の磁性体やCoを添加したγ―Fe2 O3 Fe3 O4が開発されているが、これらの磁気記録材料には加圧に対する減磁作用が強くあらわれることを指摘(第一欄三三行ないし第二欄一三行目)し、さらに、このような加圧に対する磁性層への影響は表面層ほど大きく、したがつて、高周波数域の信号を再生する場合に、より加圧減磁が大きいことを説明している(第四欄八行ないし一一行目)。そして、明細書の第二図には、各種の強磁性体を用いた磁気記録材料についての加圧減磁効果が示され、そのなかで、CrO2が最もすぐれた性能(加圧減磁が最も小さい。)をもつことが説明されている(第四欄三〇行ないし三三行目)。これにつづいて、「発明の詳細な説明」欄には、以下の記載がある。
「そこで磁気記録層として全体的にCrO2が用いられたものであれば上述したような問題点を解決されるわけであるが、CrO2は他の強磁性体に比較してきわめて高価であり、また磁気記録層の表面部分のみが加圧減磁の作用を受けなければよいわけであり、さらに、下層部分に表面層よりも抗磁力(Hc)の小さいγ―Fe2 O3やFe3 O4を用いて各種の用途に適した磁気特性が得られることから、本発明者は次のような発明をなしたのである。」と記載し、つづいて「特許請求の範囲」(請求の原因2のとおり)の記載と同じ記載を掲げている(第四欄三三行ないし第五欄五行目)。さらに、審決が甲第二号刊行物とした特公昭三七―二二一八号公報(本訴の甲第一一号証)の発明と本件発明とを対比記述した個所には、「前記の特公昭三七―二二一八号公報記載の発明では、支持基体上に低周波帯域でよく磁化される比較的抵抗磁力の第一の磁性媒体層を付着し、さらに該第一の磁性媒体層上にこれよりも薄い高周波帯域でよく磁化される比較的高抗磁力を有する第二の磁性媒体層を被着させてなる磁気記録媒体を提出している。しかしこの発明では、単にその表面層の抗磁力(Hc)を下層の第一の磁性媒体層よりも高く(すなわち大きく)するという技術を開発したにすぎず、安定した高感度、高密度記録を達成することができなかつた。この高感度、高密度記録は磁性層にかかる応力によつて発生する加圧減磁を最小限にすることによつて達成される。本発明では、上記したように表面層にCrO2を用いれば加圧減磁特性を著しく改良することができるという認識を得て、従来達成し得なかつた安定した高感度、高密度記録を可能とした磁気記録材料を開発することに成功した。」との記載がある(第七欄一五行ないし第八欄一〇行目)。
ところで、本件発明の「特許請求の範囲」の記載が請求の原因2記載のとおりであつて、その記載では上下層の強磁性体粉末の抗磁力(Hc)の相対的大小関係は格別限定されていないことは原告の自認することであるが、右の如き「特許請求の範囲」の記載を、右に指摘した明細書の構成及び説明内容に徴して理解するならば、本件発明は、加圧減磁に基づく再生出力の低下が僅少な磁気記録材料を得ることを目的として、磁気記録材料としてCrO2を用いることを特徴とするが、その場合、CrO2が高価であること及び加圧減磁の影響は表面層ほど大きいことを考慮に入れて、従来の磁気記録材料である酸化鉄またはCoを添加した酸化鉄の表面部分をCrO2または他の金属を添加したCrO2におきかえて重層構造としたものとみるのが相当である。
この点、原告は、表面層の強磁性体の抗磁力を下層のそれよりも大ならしめた点も本件発明の要旨の一部を構成するものであるとし、その根拠として「発明の詳細な説明」における「下層部分に表面層よりも抗磁力(Hc)の小さいγ―Fe2 O3やFe3 O4を用いて各種の用途に適した磁気特性が得られること」(第四欄三八行ないし四一行目)の記載と第二表(付表)に示された実施例を指摘する。
しかしながら、「特許請求の範囲」の記載が前記のとおりであつて不明瞭な点はなく、原告の指摘する第四欄三八行以下の説明のみによつては、下層に表面層のCrO2よりも抗磁力の小さい酸化鉄を用いることによつて具体的にどのような作用効果を奏しうるのか理解できないから、原告主張の如き抗磁力の大小関係についての限定が、前叙の本件発明の目的を達成するうえで、必須の要件であるとみることはできない。また、第二表に示された実施例(試料1ないし4)(本件特許公報第三頁参照。)においては、たしかに、表面層の抗磁力よりも下層の抗磁力が小となつているが、同明細書第五欄三九行ないし四二行目には「尚、実施例において、下層の抗磁力(Hc)が表面層の抗磁力(Hc)よりも小さく選択しているのは、上述の重層構造による磁気記録特性の向上のためである。」との記載があることからみても、「下層の抗磁力を表面層の抗磁力よりも小さく選択する」点は、たんに本件発明の実施例として説明したことにすぎないものと解される。
なお、右記載における「磁気記載特性の向上」(第五欄四一行ないし四二行目)とは、具体的にいかなる特性の向上を意味するか明らかでなく、本件発明で意図している加圧減磁に関する特性の向上を意味しているものと解することもできない。けだし、前叙のとおり上下層の抗磁力の大小関係は、加圧減磁に関する特性向上のための必須の要件とはいえないからである。
以上検討してきたところから明らかな如く、結局本件発明の要旨は、審決認定のとおりその特許請求の範囲に記載されたとおりの磁気記録材料にあると解するのが相当であつて、原告主張の如く特に表面層であるCrO2または他の金属を添加したCrO2の抗磁力を下層である酸化鉄またはCoを添加した酸化鉄の抗磁力よりも大とする点までが本件発明の要旨を構成するものと解することは到底できない。
したがつて、この点の審決の認定には、原告主張のような違法はない。
2 次に、原告は、甲第三号証の技術に甲第四号証及び甲第五号証の記載内容を組み合わせることは、当業者にとつて容易ではなかつたものと主張(取消事由(二))するので検討する。
(一) まず、原告は、甲第三号証を甲第四及び甲第五号証と組み合わせることが容易でなかつた根拠として、甲第三号証における磁気記録材料が加圧減磁を減少するという作用効果を有しているものと当業者が本件出願前に認識することが容易ではなかつたことを主張する。
成立に争いのない甲第三号証(米国特許第二九四一九〇一号明細書)によれば、甲第三号証には、再生出力レベルが大きいが繰返し走行による再生出力の劣化が大きい特性を有するCoを含有する酸化鉄から成る磁性層の表面部分に、再生出力レベルは小さいが繰返し走行による再生出力の減少の小さいかほとんどない酸化鉄より成る磁性層を設けて重層構造とすることによつて再生出力レベルが大きく繰返し走行によつて再生出力の劣化がほとんどみられない特性を有する磁気記録材料を得ることが開示されているものの、甲第三号証には、再生出力の劣化を生ずる要因についての説明はなく、本件発明でいう加圧減磁の現象についても何ら開示されていない。
しかしながら、成立に争いのない甲第四号証及び甲第五号証によれば、テレビジヨン学会雑誌「テレビジヨン」第一八巻第一二号一九六四年一二月号第二三頁ないし第二九頁(甲第四号証)及び昭和四二年一〇月社団法人テレビジヨン学会発行の「第三回テレビジヨン学会全国大会講演予稿集」第八九頁ないし第九二頁(甲第五号証)によつて、本件出願前にすでに次のような技術事項が当業者に明らかにされていたことが認められる。
<1> 磁気記録の高密度化にともない、磁気記録材料としてCoを添加した酸化鉄がクローズアツプされてきたが、Coを添加した酸化鉄は、Coを添加しない酸化鉄に比し、加圧減磁が著しく、再生出力が劣化すること、各種磁性材料のうちCrO2は、加圧減磁が最も少いこと(甲第五号証第九二頁図四及び甲第四号証第二八頁ないし第二九頁参照。)。
<2> 加圧による磁性層への影響は、表面層ほど大きく、したがつて、高域周波数ではより加圧減衰が大きいこと(甲第四号証第二六頁ないし第三八頁参照。)。
右の如き技術事項が当業者に明らかにされていた本件出願前の技術的背景において、当業者が甲第三号証の磁気記録材料をみると、甲第三号証自体には加圧減磁に基づく再生出力の劣化について説明がないにしても、当業者としては、甲第三号証の磁気記録材料が、Coを添加した酸化鉄から成る磁性層の上面にCoを添加しない酸化鉄より成る磁性層を設けて重層構造とすることによつて、Coを添加した酸化鉄より成る単層の磁気記録材料を用いた場合に比し、加圧減磁による再生出力の劣化が少なくなるものと容易に理解できるところである。そして、また、右の技術的背景がある以上、当業者が、加圧減磁による再生出力の劣化の最も小さいとされるCrO2を磁気記録材料として採用することはきわめて当然であり、その場合CrO2が高価であることを考えると、磁気記録層全体をCrO2とする代りに、下層は、甲第三号証と同じく、Coを添加した酸化鉄(従来の磁気記録材料)とし、加圧減磁の影響の大きいとされる表面部分のみを加圧減磁(減衰)の小さいとされるCrO2でおきかえて重層構造とすることも当業者が容易に実施しうるところであるとみるべきである。
この点、原告は、甲第三号証と甲第四及び甲第五号証の組み合わせが容易でなかつた根拠の一つとして甲第三号証が専らオーデイオ用のものであることを指摘する。
しかしながら、本件特許公報である前掲甲第二号証、甲第四及び甲第五号証ならびに成立に争いのない乙第一号証(特許公報、特公昭三二―六〇八七号)などの記載によれば、本件出願前すでに各種磁気記録装置の分野を通して高密度記録装置の開発の要求が高まりつつあつて、磁気記録材料についてもオーデイオ用かビデオ用かの差異を指摘することなく一般に高密度磁気記録装置に適用したときの作用効果が論じられているところからして、当業者が磁気記録材料を考える場合にオーデイオに使用するかビデオに使用するかによつて本質的な差異があるものとはみておらず、ただ磁気記録方式に伴う記録密度の差異によつて要求されるところの特性上の程度の差異に注目するにすぎないものと理解していたことが窺える。したがつて、当業者としては、甲第三号証の磁気記録材料についても、オーデイオ用に限定して考えることなく、ひろく高密度磁気記録装置に適用したときの作用効果を当然考えるとみるべきであり、そうすると甲第三号証の磁気記録材料についても、加圧減磁による再生出力の劣化を防止すべき技術的考慮を加えて前叙の如く理解することが当然予測できるから、原告のこの点の主張は、前記判断を覆えすに足るものではない。
このように、甲第四号証と甲第五号証で開示されている如き技術的事項を認識したうえで、甲第三号証を理解するならば、審決が、甲第三号証の磁気記録材料は、実質的に走行中の加圧による再生出力の劣化をなくする作用効果を奏するものと認定した点には、何ら誤りはないというべきである。
以上の検討から明らかなとおり、審決が甲第三ないし甲第五号証に基づいて本件発明の進歩性を否定した審決の判断に誤りはなく、審決には、何らこれを取り消すべき違法はない。
三 よつて、審決に違法のあることを理由にその取消しを求める原告の本訴請求は失当として棄却することとする。
〔編註〕 本件における特許請求の範囲は左のとおりである。
支持体上に強磁性粉末を結合剤中に分散せしめてなる磁気記録層を有する磁気記録材料において、該磁気記録層が重層構造を有し、表面層の強磁性体粉末がCrO2または他の金属を添加したCrO2であり、且つ下層の強磁性体粉末が酸化鉄またはCoを添加した酸化鉄であることを特徴とする磁気記録材料。